エピソード集


名優に伝説や逸話はつきものです。森光子にもさまざまなエピソードや逸話があります。ここではその一部をご紹介します。

スクワット

2007年 第29回日本文化デザイン大賞の授賞式でスクワットを披露

風邪をひかない。転ばない。お医者さまのいうことをよく聞く。
これは、森光子が守り続けてきた健康管理の三か条ですが、後年、光子の代名詞となったのが「スクワット」です。

光子にスクワット勧めたのは、野茂英雄などのトップアスリートやアーティストのトレーナーとして名を馳せていた川島英夫トレーナーです。

1992年、72歳の光子は足首の治療のために川島の元を訪れました。紹介してくれたのは舞台で共演し交流のあった東山紀之でした。足首が回復するや光子は「いつまでも舞台に立ち続けたいから」と川島に柔軟性や敏捷性を維持するための指導とメンテナンスを依頼。川島が推奨したのが、スクワットとエアロバイクだったのです。

「出会った当時の森さんの肉体は舞台で鍛えられていて十分な筋力もありました。とにかく膝が綺麗でした。野茂の肩もそうですが、天賦の恩恵を感じるんですよね。森さんがこれまで通り、縦横無尽に舞台を走り演じるためには大腿筋を衰えさせないことが重要でした」

川島は、加齢とともに衰えてしまう太ももの筋肉を鍛えるために、朝晩75回のスクワットと、エアロバイク20分の運動を勧め、以来、それが光子の日課になりました。

「長く続けるために大切なことは、このあたりでいいだろうと手を抜かないことです。私は歯間ブラシを使って毎晩30分以上歯の手入れをしていますが、なにごとも手を抜いた瞬間から坂道を転げはじめます」

前人未到の記録を可能にした、不断の努力と不屈の役者魂 ―― 。
野茂英雄の大ファンだった光子は、川島トレーナーが絶賛した「野茂の肩に森の膝」という言葉を手放しで喜び、川島を介して知り合った野茂との親交も深めていきました。

「メジャーで二度のノーヒット・ノーランを達成した野茂さんの足元にも及ばないけど、私も「放浪記」の記録を大切にしていくわ」

「死ぬまで舞台に立ち続けたい」と願っていた光子にとって、単身アメリカに渡りメジャーに挑戦した無口な戦士・野茂英雄は、常に光子を奮い立たせてくれる偉大な英雄だったのです。

スクワットだけでなく、毎日の食生活でも光子らしいルールがありました。

  1. 毎食、生野菜と温野菜を食べる
  2. 品数は多く、分量は少なくする
  3. 肉を毎日適量食べる
  4. 肉の脂身を適量食べる(※大好物は牛ロースのステーキでした)
  5. 毎日、自家製の豆乳ジュースを飲む
  6. ゆっくり噛む

年齢を超越した“森光子・元気の秘密”、皆さんも試してみませんか!?

中村屋三代


森光子の趣味は麻雀でした。もっとも個性的な麻雀仲間は、梨園きっての麻雀好きとして有名だった十七代目・中村勘三郎でした。

十七代目は光子を小日向の自宅に呼んで雀卓を囲みました。
その麻雀はこんな感じだったそうです。

光子  「あ、すみません。ツモっちゃいました」
十七代目「およしなさい、そんな安い手」
光子  「安いか高いかわからないでしょう」
十七代目「そんな安い手、だめ」

光子は、そんな子供のような十七代目との麻雀をおおいに楽しみ、その家族との絆も深めていきました。

「じじんちゃま(十七代目の愛称)と森さんにお芝居を見せるの」

芝居のセリフや型を覚えて、雀卓を囲む十七代目と光子に見せに来るのは、長男・勘九郎(当時)の息子、勘太郎(当時)と七之助です。

祖父、息子、孫、中村屋三代が暮らす家で、光子は家族のように受け入れられ、光子もまた芸の道に生きる彼らを「心の家族」として愛しみ、幼い勘太郎と七之助の成長を見守り続けました。

1988年4月16日、十七代目が旅立った後も、光子は勘九郎一家に心からの声援を送り続けました。

そして2005年、勘九郎が十八代目・中村勘三郎を襲名。勘太郎や七之助が見事な「鏡獅子」を演じるまでに成長したのを見た光子は、ある願いを抱くようになります。

「中村屋三代と同じ舞台に立ちたい」

光子の願いは、2007年の新作舞台「寝坊な豆腐屋」で実現しました。

夫と息子を残して家を飛び出した不実な母親が、愚直に豆腐屋を営む息子に30数年ぶりに会いに来るという、母子の人情劇。
息子役の十八代目・勘三郎が、母親役の光子を背負う大詰めは多くの感動を呼びました。

この舞台には勘三郎の息子、勘太郎(当時)も出演。七之助は歌舞伎座の舞台があり共演はかないませんでしたが、「祖父の親友で、父を子供の頃から知っている森先生に楽屋でご挨拶できる」と光子の楽屋に挨拶にいくことをこの月の日課にしました。

光子念願の中村屋三代との共演がかなってから、5年。
2012年11月10日に光子が逝去すると、その約1ヶ月後の12月5日、食道がんで闘病中だった十八代目・勘三郎が57歳という若さで亡くなりました。

この時、長男の勘太郎は京都・南座で六代目・中村勘九郎の襲名披露興行の真最中でしたが、かつて父親がそうしたように、七之助と共に興行を続行しました。

「親の死に目に会えるような役者になっちゃいけないよ」

光子が尊敬と愛情を持って見守り続けた“心の家族”、中村屋三代の、芝居への情熱と魂 ―― 。

それは、彼らの息子たちに引き継がれ、
さらにその息子たちへと、永遠に受け継がれていくことでしょう。

天の助け

京都木屋町の生まれ育った家

森光子は自著のなかで「私には、ここぞというときは天の助けがあるようなのです」と書いています。

そんな天の助けのなかでも“命の恩人”といえるのが、終戦後、光子が結核にかかった時に治療してくれた山口博医師と、その母・山口寿賀です。

終戦後、実家の京都に戻った光子は、大阪の劇場を巡って、歌やコントを披露する生活を始めます。そんな時、偶然再会したのが、小学校の同窓生だった山口博です。医師をしていた山口は、顔色の悪い光子を自分の病院に連れて行きレントゲンを撮ってくれました。
結果は、肺結核でした。戦争中の南京慰問で肺浸潤と診断されたのに治しきらず、無理を重ねた結果でした。

病巣はかなり広がっており、すぐに仕事を辞めて療養しなくていけない状況でした。山口の母・寿賀は、親戚が運営しているサナトリムを手配してくれ、光子のために毎日お手製のお重を作り、往診に向かう山口医師に持たせました。
そして山口医師は、高価な結核の特効薬ストレプトマイシンを闇で購入し、惜しげもなく打ってくれました。

山口医師は「もう二度と仕事に復帰できないだろう」と思っていたそうですが、「山口先生の言いつけを守れば治る」と信じていた光子は、山口親子の献身的な看護を受け、2年余りの療養を経て奇跡的に回復します。
しかし、からだは治っても、今度は仕事がありません。

そんな時、救いの手を差し伸べてくれたのが、光子が“ママ様”と呼んで慕った、茶道裏千家十四代家元・千宗室夫人、千嘉代子です。

知人から光子を紹介された嘉代子夫人は、光子を自分の秘書として採用。光子に名刺を持たせ、外出する際には側近として光子を帯同、国内外の要人や文化人などが訪れる裏千家での茶会やその後のパーティーでも家元夫人の秘書としてお客様への対応を任せました。

敗戦で自信を喪失した日本人が多い中にあって、海外の要人に対しても常に堂々と応対していた、嘉代子夫人との3年間で、光子は、お茶席の作法から、礼儀作法全般、料亭での心づけの仕方までマスターしていきました。

「私が芸能の世界へ戻り、なんとかやっていくことができたのは、あの3年間があるから。ママ様の教えやしつけは、そのまま女優に必要な所作や教養でした。私は日々、大切な経験をさせて戴きました、ママ様にお仕えできたという誇りと自身が、生きていく上での支えになりました」。

後年、光子が「3時のあなた」の司会に抜擢された時、第1回目のゲストとして招待されたのは、“ママ様”こと千嘉代子“東京の母”三枡延、十七代目・中村勘三郎、美空ひばりなど、光子が人生のさまざまな局面で出会った、かけがえのない人たちでした。

「私を育て、支えてくださった方のお名前を挙げればきりがありません。ひとりひとりのお名前を記せませんが、そのすべての方に深く感謝しています」

森の“お茶会”


森光子が座長を務める公演では、開演前に必ず“お茶会”が開かれます。
場所は、光子の楽屋です。

決して広くはない楽屋に、共演の俳優やスタッフが、ベテランも新人も集合し、膝を突き合わせて光子が用意したお菓子をいただきながらお茶を飲みます。

お茶を飲みながら、舞台や演技の話をしたり、世間話をしたり。

光子は自分が中心に立つわけでもなく、話す人の目を見ながら、毎日同じ朗らかさ、穏やかさで話を聞き、元気のない人には声を掛けます。

体調が悪い時も、悩み事があろうとも、何一つ変わらぬ表情で自分の楽屋へ仲間を招き入れ、お茶会を開く光子。
テレビドラマに出演した時も、光子は、自分の楽屋や収録の前室にお弁当やおかずを広げ、お茶会を開きました。

“森のお茶会”を見た野茂英夫は、そこにチームリーダーとしての理想を見たといい、光子の大ファンだと公言する萩本欽一は、共演者やスタッフの心をひとつにまとめあげる“お茶会方式“を自分の番組で採用したと明かしています。

「個室の楽屋を禁止して、大部屋を作りました。森さんをお手本に、新人とも素人さんとも一緒にお弁当を食べながら話しました。企画会議も、リハーサルも、みんなその大部屋でやりました。その雰囲気が、番組に表れていきました」。

光子を教科書とした番組、「欽ちゃんのどこまでやるの!?」は高視聴率を記録、20年の長きにわたって、日本中をあたたかい笑いで包んだ、伝説の“お茶の間バラエティ”となりました。

名言集

あいつよりうまいはずだがなぜ売れぬ

この川柳は、森光子がいわゆる脇役専門の女優だった頃に詠んだと言われています。森光子が初めて主役の座をつかんだのは41歳の時でしたが、それ以降は、常に第一線で活躍。長い下積み時代に培った芸の力を原動力に名優としての道を極めて行きました。下積みの苦労は決して無駄にはならない。光子はそれを体現した役者でした。

セリフは書いて覚えます

森光子はセリフ覚えが早いことで有名でした。光子が実践したのは、紙に書いて覚える方法です。この方法は、戦前の大スター、坂東妻三郎のやりかたを光子流にアレンジしたものです。当時“坂妻”は、光子の実家の割烹旅館によく訪れており、その際、紙にセリフを書いて鴨居などに貼り、お座敷で三味線を聴きながら覚えていたそうです。 名優は、名優を育てる。セリフ覚えの早さから当時“コピー機”と呼ばれた光子。そのルーツは“坂妻”だったのです。

あしたはあしたの風が吹く

この言葉は、森光子の信条です。世の中に浮き沈みはつきものです。精一杯やれるだけやったら、あとは運を天に任せましょう。過去を振り返るより、明日の希望を語りましょう。

名作映画「風と共に去りぬ」のヒロイン、スカーレット・オハラも、「tomorrow is another day」と言って、明日への一歩を踏み出します。

光子は2009年に出版した自伝の最終章をこんなふうに結んでいます。
「いま私は体力の限界まで「放浪記」を上演し続けたいと心に誓っています。林芙美子という方は失敗してもなにも後悔しませんでした。私も同じです。後で振り返って、そのときが誠実で一生懸命だったら、それでいい。いつだって明日があると思って生きてきました。あしたになれば、あしたの風が吹きます。あしたを生きましょう!」

参考文献

■「人生はロングラン 私の履歴書」森光子(日本経済新聞出版社)
■「全身女優 私たちの森光子」小松成美(株式会社KADOKAWA)
■「女優 森光子 大正・昭和・平成 ― 八十八年 激動の軌跡」(集英社)
■「女優魂 森光子『放浪記』2017回の記録」(扶桑社)
■「女優・半世紀の挑戦 あきらめなかったいつだって」森光子(PHP研究所)

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