森光子は、映画全盛期、ラジオ全盛期、テレビ全盛期を体験した稀有な女優といえます。時代劇映画の娘役として大忙しだった駆け出し時代。大阪で一流喜劇人たちと共演して実力をつけた戦後の下積み時代。菊田一夫に見いだされて以降の黄金時代。そして迎えた、円熟の時代。
この章では、森光子の女優人生に大きな影響を与えたキーパーソンを紹介しながら、「放浪記」以降の女優活動を振り返ります。
菊田 一夫
(1908~ 1983)
森光子の女優人生を語る上で欠かせない人物、それが菊田一夫です。
関西で喜劇女優としてそれなりの地位と人気を築いていた森光子が、菊田一夫に見出されたのは、1958年、38歳の時でした。
梅田コマ劇場に打合せに訪れていた菊田一夫が、タクシー待ちの間にチラッと覗いた舞台に光子が出演していたのです。
当時菊田一夫は、東宝演劇部の総帥としての仕事のからわら、映画や舞台の原作、脚本、演出などを精力的にこなす演劇界の重鎮で、現代劇の理想を実現するための劇場「芸術座」を東京に開設したばかりでした。
菊田は光子に「芸術座に出ないか」と声を掛けますが、同時に「君の芝居はとても面白いが、やっぱりワキ(脇役)だな」と言い放ちます。菊田の言葉にショックを受けながらも発奮した光子は「新しいものにぶつかりたい」と、大阪での実績を投げ打って東京進出を決意。1958年11月、芸術座デビュー作となった「花のれん」を皮切りに、「がめつい奴」、「がしんたれ」と菊田作品に相次いで出演。菊田は、自身の若き日を描いた「がしんたれ|で光子が演じた林芙美子を見て、光子に「今年の秋、林芙美子だよ」と告げます。そして生まれたのが、1961年の舞台、菊田一夫作・演出、森光子主演の「放浪記」です。
「放浪記」は、幼くして養子に出され辛酸をなめながら詩人をめざした菊田の半生を、林芙美子の波乱の半生に投影して描いた作品で、菊田は、「放浪記」の初演台本に、こう書いています。
「外観は林さんと似てもいない森光子により…私の知っている林芙美子さんの・・・・そのたくましい人間を描くことができれば脚本作家の本懐これに勝るはなしです」。
そんな菊田の期待に応えたい一心で、光子は無我夢中で舞台を務め、「放浪記」以降も、菊田作・演出の舞台に数多く出演。1973年、菊田が65歳で亡くなるまで、数々の名作を世に送り出しました。
小野田 勇
(1920 ~ 1997)
「放浪記」に続いて上演回数の多い舞台が、劇作家の小野田勇と組んで舞台化した「おもろい女」です。
「おもろい女」は、36歳で夭逝した天才漫才師ミスワカナの生涯を描いた作品で、1965年に小野田の脚本によりNHKでドラマ化されていました。
その時の配役は、ミスワカナ役が光子、相方・玉松一郎役を藤山寛美が演じました。光子は「おもろい女」を舞台化するためには、藤山寛美のようなたしかな相手役がいないと無理だと考えていました。
しかし当時、藤山は借金問題などを抱えており、舞台化が実現したのは、芦屋雁之助という得がたい役者と出会った1978年のことでした。雁之助は弟の小雁と組んで漫才をやったこともあり、当時の喜劇界を知るまさに適役でした。
「おもろい女」は、翌年の1979年に再演され、光子と雁之助は二人揃って芸術祭大賞を受賞。2006年からは雁之助に代わって、段田安則が一郎役に抜擢され、上演回数を重ねていきました。
光子は新興キネマ時代にミスワカナと映画や部隊で共演したことがあり、ワカナはまだ十代だった光子を「森みっちゃん」と呼んで妹のように可愛がったそうです。そして戦後、京都に戻った光子は、奇しくもワカナの最後の舞台でも共演していました。
1946年、西宮球場での野外演芸会を終えて光子と別れたワカナは、駅のホームで倒れ、そのまま36年の生涯を閉じました。死因はヒロポン中毒による心臓麻痺だったといわれています。
ヒロポンは戦中戦後に流行した覚せい剤の一種で、疲労回復に効く薬として、1951年に使用所持が禁止されるまで、普通に薬局で売られていました。
光子は小野田に「常習性があるヒロポンにより、ワカナの人生が変わっていくさまを赤裸々に描いて欲しい」と頼み、華やかな舞台からは伺い知ることのできない、天才漫才師の光と影を演じ切りました。
光子は、「ミスワカナを演じることは難しい挑戦でした。小気味良いテンポ、天才的な話術、私はそれを実際に舞台の袖で勉強していましたから少しでもワカナさんに近づけるように努力しました」と振り返り、「おもろい女の裏側には、悲しい女が張り付いている」と語っています。
「おもろい女」に続いて舞台化されたのが、1980年の「雪まろげ」です。
「雪まろげ」は、光子が小野田に「悪気なく嘘をついてしまう女がやりたい」と願って生まれた作品で
光子が演じる温泉芸者の小さな嘘が、雪だるま式にふくらんでしまうことから起こる喜劇で、「雪ころがし」という意味の「雪まろげ」が題名となりました。
演出を担当したのは、三木のり平で、これが翌1981年の「放浪記」の潤色・演出につながっていきました。
三木 のり平
(1924 ~ 1999)
菊田一夫が遺した名作「放浪記」は、1981年、初演から20年を経て大きな転機を迎えました。お客様の帰宅時間等への配慮から、4時間半以上あった「放浪記」の上演時間を短くすることになったのです。(※5時間半という表記もあり)
その大役を見事にやり遂げたのが、光子が親しみと尊厳をこめて“のり様”と呼ぶ、喜劇役者であり演出家としても活躍した三木のり平です。
生放送時代のテレビドラマ「若い季節」で三木のり平と初共演して以来、その才能を目の当たりにしてきた光子は、“のり様”に「放浪記」の潤色を依頼します。
当時、三木は、主に小野田勇の脚本で明治座や新橋演舞場の舞台に役者として立ちながら、同時に演出も務めており、前年の「雪まろげ」で芸術座初演出も成功させていました。
三木は「菊田のオヤジのホンをカットするのが辛い」と苦しみながらも、繊細なカットや変更を積み重ねて潤色を敢行。3時間半に再構築された三木のり平潤色・演出の「放浪記」は、菊田が作品に込めた思いを損なうことなく、テンポの良い、活気のあるものとなり、三木潤色の脚本は、500回公演から2009年の最終公演まで継承され、1999年に三木が亡くなってからは、三木の演出助手を務めていた北村文典が後継者となりました。
そんな「放浪記」の名物シーンのひとつが、芙美子が小説の雑誌掲載を新聞で知り、喜びのあまり木賃宿のせんべい布団の上で“でんぐり返し”をするシーンです。菊田演出では“でんぐり返し”を3回してきましたが、三木演出では1回に変更され、後の北村演出では“万歳三唱”に変わります。
万歳三唱に変ったのは、2008年、芸術座の跡地にオープンした「シアタークリエ」での初上演からで、大きな理由は88歳になる光子の健康を考えてのことでしたが、木賃宿に寝泊りする人々が、万歳する芙美子を見て、訳がわからないまま万歳の輪に加わるという演出は、「芝居の筋から言えば、よりリアルになった」と周囲も光子自身も納得のいった演出変更となりました。
2009年、米寿を迎え、放浪記が2000回上演を迎えた時、光子は、「こんなに長く演じさせていただける私は、幸せでございます。これまで私を支えてくださったすべての方へ、感謝の心を捧げます。舞台は毎回発見の連続です。この次はもっといいお芝居をお見せしたい。そう念じて、一回一回務めております」と語っています。
杉村 春子
(1909 ~ 1997)
森光子には、演技を教えてくれる師匠と呼べる人はいませんでした。
そんな光子が心から尊敬しお手本としたのは、新劇女優の杉村春子でした。
十代の頃にたった一度だけ見た舞台で杉村に憧れた光子は、1940年の映画「小島の春」でハンセン病患者の妻を演じた杉村の演技にも大きな感銘を受け、女優をやるのなら、「杉村のような女優になりたい」との思いをさらに強くします。当時光子は時代劇の娘役を掛け持ちするような毎日を送っており、通っていた京都の撮影所で「東京へ行って新劇の劇団に入りたい」と言っては、周囲から「新劇じゃ食えないよ」と一笑にふされたそうです。実際、日々の生活費を稼がなくてはならなかった光子には無理な話でした。
1985年、八木柊一郎作の「浮巣」で憧れの杉村と初共演し、その後「木瓜の花」、「花霞」と共演を重ねたことを、光子は「女優としてなにより幸せな経験でした」と語っています。
杉村の舞台を見るときは、一挙手一投足、細かな手の動きまで見逃さないようにしていた光子が、忘れられない舞台として挙げているのが、1990年、杉村84歳の時に演じた最後の「女の一生」です。主人公の少女時代を演じた杉村が、すべての動きをそぎ落とすことで少女を表現した演技に光子は圧倒されました。
新劇に憧れながらも、「新劇では食べていけないから」とその道に進めなかった光子は、「放浪記」で劇団民芸の米倉斉加年、俳優座の大塚道子ら新劇の俳優たちと共演することで、長年の新劇への思いを昇華させていきました。
三木のり平潤色・演出の「放浪記」から、林芙美子のライバル・日夏涼子役に抜擢された劇団民芸の奈良岡朋子も、その一人でした。
新たに加わった奈良岡は、光子にとって「憧れの杉村春子の再来」でした。
「役者が変われば、芝居は変わる。初演から20年が過ぎた放浪記が、また新たなものになるかもしれない」、光子は才能あふれる奈良岡と同じ舞台に立つことの高揚感と期待を胸に芙美子を演じ、「公演を重ねていくごとに、面白くて仕方がなくなった」と語る奈良岡と、あうんの呼吸で舞台を作り上げていきました。
2017回を数えた「放浪記」で、800回近く日夏涼子を演じた奈良岡は、「回を重ねるごとに森さんの演技がそぎ落とされていった」と言い、「そうしたことが自在にできるほど、森さんは放浪記に心血を注いでいました」と振り返ります。
石井 ふく子
(1926 ~ )
森光子には“お母さん女優”と言われた時代がありました。その仕掛け人となったのが、女性プロデューサーの草分けとなった石井ふく子です。
光子の主演・出演作品を数多く手がけた石井ですが、石井が光子と初めて会ったのは、仕事ではなく、赤坂にあった石井の実家でした。光子は、小唄の家元として花柳界や芸能界で名をはせていた石井の母・三枡延の麻雀仲間として家に遊びに来ていたのです。二人を引き合わせたのは、17代目の中村勘三郎で、勘三郎の家で麻雀卓を囲んで意気投合した二人は、以来、母と娘のような親密な付き合いを始めたのです。
三枡延を「ママ」と呼び、「ただいま」といって石井家にやってくる光子にオーラを感じていた石井が満を持して企画したのが、1965年、単発ドラマとして放送されたTBSドラマ「時間ですよ」です。
「時間ですよ」は、脚本・橋田壽賀子、演出・橋本信也による銭湯を舞台にした下町人情ドラマで、石井は、銭湯の女将に光子を、その主人に17代目勘三郎をキャスティングしました。
単発ドラマの「時間ですよ」に続いて、石井がプロデュースしたのが、1966年に放送された「天国の父ちゃんこんにちは」です。大阪で下着の行商をやっていた女性の手記を脚色したドラマで、光子は夫を亡くし女手ひとつで子供たちを育てる母親を演じました。このドラマは大ヒットし、10年以上に渡り21のシリーズが誕生。単発ドラマだった「時間ですよ」も1970年に連続ドラマとして復活。高視聴率を獲得しながら、何度もシリーズ化され、光子は “お母さん女優”として多くの人々に知られるようになりました。
そんな光子を、文豪・山本周五郎の作品と引き合わせたのも石井です。
1967年、石井は山本周五郎を訪ね、山本周五郎の時代小説を、光子の主演でドラマ化したいとお願いします。そして実現したのが、山本が二度目の妻をモデルに描いた時代小説「おたふく物語」のドラマ化です。
橋田壽賀子脚本、石井ふく子プロデュース、森光子主演の「おたふく物語」は好評を博し、翌1968年には、平岩弓枝の脚本・演出で舞台化されました。自分をおたふく(不美人)だと思いこんでいるヒロインの健気な人間像と、ほのぼのとした夫婦愛を描いた「おたふく物語」は、光子の芸の幅と魅力を示した作品となりました。
光子は、その後も、石井が演出した舞台「常磐津林中」や、石井・橋田コンビが生んだ長編ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」など、数々の作品に出演。二人は互いを“妹君”“姉上”と呼び合いながら、公私共に深い絆を築いていきました。
栗山 民也
(1953 ~ )
1990年代半ばから、光子は積極的に新しい才能と関わるようになります。
その代表格、気鋭の演出家・栗山民也と光子の出会いは、新劇と商業演劇の枠を超えた新たな舞台を生み出しました。
演出:栗山民也、主演:森光子で送り出したオリジナルの新作舞台は、1993年の「恋風 昭和ブギウギ物語」を皮切りに、東山紀之と共演した「春は爛漫」、「深川しぐれ」、「ツキコの月、そして、タンゴ」、18代目中村勘三郎と共演した「寝坊な豆腐屋」など、10作品にのぼります。
栗山が手がけた舞台を見て、「一緒に仕事をすれば、これまでにない舞台が作れるはず」と思った光子が演出を依頼したのは72歳の時でした。
栗山は「国民的大女優がなぜ自分のような新参者を使うのか」と思ったそうですが、初対面でそんな心配は無用と知り、本来の栗山演出を披露。光子もまた、栗山の提案や演出を嬉々として受け止め、縦横無尽に応えていきました。
毎回、初めて出会ったかのように新鮮に役を演じる光子を見て、栗山は「演出家にとって、奇跡のような瞬間の連続でした」と語っています。
栗山演出では、マキノノゾミや鈴木聡など次世代の劇作家の作品にも積極的に取り組みました。
その一つが、マキノノゾミ脚本の「本郷菊冨士ホテル」です。かつてホテルがあった場所に、女中役の光子が外地を転々として戻ってきたら、焼け野原で何もなかった、というのがラストシーンで、台本には「そこでただポツンといて、鼻歌歌いながら去っていく。幕」とだけ書かれています。
栗山が、「この人が今、何を思っているのか、少ししゃべってください」と言うと、光子は戦中戦後に体験したエピソードや思い出を語り、鼻歌を歌いながら引っ込んでいきました。
上演のたびに毎回違うエピソードを語る光子を見て、栗山は「戦争で得た壮絶な体験すら栄養にして、観る人の心をしっかり掴んでいるのだと、震撼した」と述懐。「生きてきたすべての時間が舞台に集約されている “全身女優”」だったと賞賛しています。