歌手

1939年から年歌手としても活動

森光子が歌手として活動したのは、新興キネマが演芸部を創設した1939年から、戦後の混乱期に結核で倒れる1949年までの、10年ほどのことです。

1939年10月、映画法ができ、映画が自由に作れない時代になりました。映画の製作本数が減少すると共に増えていったのが、軍隊への慰問と、映画館で映画の代わりに見せる歌や芝居のアトラクションでした。
同年春に開催された新興キネマ演芸部の旗揚げ公演に、歌手として映画部から派遣された光子は、映画法の施行以降、軍隊や映画館で歌う機会が多くなりました。

子供の頃から歌うのが好きだった光子は、1940年に公開されたミュージカル仕立ての映画「続阿波の歌合戦」に出演した時の楽しさから、いずれは歌手になりたいと思うようになり、1941年頃には映画出演より歌手活動がメインになりました。

そんな時に舞い込んだのが、レコーディングの話です。しかしテスト盤まで完成したところで、内容が感傷的すぎると内務省の検閲にかかりレコードデビューの話は消滅。落胆した光子は、「東京に出ればなんとかなる」という無鉄砲さで、上京。銀座の芸能事務所に所属し、映画館のアトラクションで歌手仕事をこなすようになります。
当時の歌謡界では、東海林太郎、田端義男、藤山一郎、淡谷のり子、二葉あき子などが活躍しており、ほどなく光子は彼らスター歌手の前歌を任されるようになります。前歌とは、メイン歌手の着替えの間を歌でつなぐ役割、いわゆる前座歌手のことで、光子は錚々たるスター歌手の前歌担当として、東京だけでなく地方巡業にも同行。京都時代同様、目の回るような忙しい日々を過ごすことになります。

しかし、光子が上京した1941年の12月8日に真珠湾攻撃があり、戦争が光子の歌手活動にも大きな影響を及ぼしていきます。

1942年の春、光子は東海林太郎率いる外地慰問団に参加して満州を訪問。1943年7月には、総勢20人あまりの南方慰問団と共にシンガポールへ向かう船上にいました。
しかしこの年の2月、日本軍はすでにガダルカナル島を撤退。山本五十六連合艦隊司令長官は4月に戦死。5月には北大西洋でアップ島の守備隊が玉砕。ニューギニア戦線ではアメリカ軍との死闘が続いていたのですが、光子たちは何も知らされずに南方へ向かったのです。

1942年から東海林太郎率いる外地慰問団に参加

シンガポール、チモール、ジャワ、バリ、3ヶ月の予定だった南方慰問は、8ヶ月にも及び、シンガポールから呉に帰り着いたのは、1944年2月末のことでした。

外地への慰問は、光子の心に多くのものを刻み付けました。

戦地の兵隊たちが、高峰三枝子の「湖畔の宿」など、戦時にはふさわしくないといわれた曲を聴きたがり、姿勢を正して清聴してくれたこと。
チモール島のクパンで「お国のために」飛び立つ若きパイロットたちを無言の涙で見送ったこと。
日本への帰路で立ち寄ったシンガポールの海軍司令部で見たディズニー映画やハリウッド映画の素晴らしさに圧倒され、日本が「鬼畜」と呼んでいる国がこんな素晴らしいものを作れるのか、と思ったこと、などなど。

光子は長い慰問の旅を通して、戦争の理不尽さ、不公平さ、悲惨さ、むなしさ、そして、一般国民には何も知らされないのだ、ということを、身をもって学んだのです。後年、光子が長きに渡って日本赤十字の広報活動に携わったのは、こうした戦争体験あってのことでした。

戦後、光子に来た仕事は進駐軍の慰問、いわゆるキャンプ回りでした。
戦争中は日本軍を慰問していたのに、今度は米軍キャンプを慰問するという皮肉な現実でした。

光子は、英語の曲を20曲ほど覚え、キャンプ回りを始めました。
東京は殺伐としていました。住宅事情も悪く、仕事の見通しも立たない状況に見切りをつけ、1946年、光子は焼けなかった京都に戻ります。
しかし、大阪で劇場回りをしているうちに肺結核にかかり、1949年から2年半近く療養をすることになります。

光子の療養中に、歌謡界には新星が次々と登場します。その代表格が12歳で「悲しき口笛」を大ヒットさせた美空ひばりです。激変していく歌謡界を見て、すでに30歳になっていた光子は歌手復帰をあきらめ、1952年、女優での再起をめざして芸能界に復帰しました。

当時を振り返って光子は「歌手としてはそろそろ限界が見えていました。美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみなど戦後現れた新しい歌手たちと同じ土俵で戦っても勝てなかったでしょう」と書いています。

歌手時代は1枚もレコードを出すことがなかった光子ですが、女優道にまい進してからは、テレビドラマや舞台の主題歌などを中心に、様々なレコードをリリース。舞台やテレビで歌う機会も多くなりました。また1996年、76歳の時にはジャニー喜多川構成演出の「森光子スペシャルディナーショー」で、初のディナーショーに挑戦しました。

 

Discography

シングル

  • 「東京下町あたり」(1973年/AMON-1028) 作詞:阿久悠/作曲:山下毅雄TBS系「時間ですよ」主題歌
  • 「湯の町放浪記」(1979年/SV-6566) 作詞:阿久悠/作曲:市川昭介TBS系「熱愛一家・LOVE」挿入歌
  • 「花のいのちは短くて」(1992年/VIDL-10243)作詞:山添花秋/作曲:市川昭介
  • 「カーテンコール」(1995年/PCDA-00800) 作詞:秋元康/作曲:筒美京平日本テレビ系「いつみても波瀾万丈」エンディングテーマフジテレビ開局55周年スペシャルドラマ「森光子を生きた女 ~日本一愛されたお母さんは、日本 一寂しい女だった~」主題歌
  • 「月夜のタンゴ」(2005年/JECN-0075) 作詞:竹内まりや/作曲:山下達郎舞台「ツキコの月 そして、タンゴ」主題歌
  • 「人生革命」(2010年/PCCA-90004) 作詞:森光子/作曲:MARK DAVISオリコンシングルチャート70位、CDTVシングルランキング51位有線演歌チャート1位(1/27付に1位獲得。史上最高齢記録)

    c/w 「人生半ばです」(ジャニーズとのコラボレーション作品)

    作詞:錦織一清/コーラス:滝沢秀明、Kis-My-Ft2

アルバム

    • 「Mitsuko Mori」(1995年/ PCCA-00792 4枚組 PCCA-00793 2枚組)(1995-2010年/PCCA-03031- 再発売)
    • 「森光子のふるさとの歌をたずねて」民謡12曲の歌とナレーション(1972年/CF-12)(2012年/TECE-3144 -復刻発売)
    • 「歌と想い出」懐メロ14曲の歌とナレーション 構成・脚色:向田邦子(1972年/CF-18)(2012年/ TECE-3145 -復刻発売)

      ※戦争中の南方慰問で覚えた現地の歌「ブンガワン・ソロ」も収録

CDアルバム Mitsuko Mori

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